6 近代の中国茶葉輸出の隆盛
清の時代(1644年〜1911年)の中期を過ぎた頃、十八世紀初めから広東省広州を経てロンドンへの茶葉の輸出がはじまり、茶葉は国際商品としての貿易の時代を迎えます。茶葉はロンドンから欧米各国へと輸出され、陸路の帝政ロシアをぬける所謂シルクロードをあわせて当時中国茶の輸出には二つのルートがあったとされています。1846年の中国からの茶葉の総輸出は2.5万tでしたが、アヘン戦争が終わり広州・廈門・福州・上海の開港後三十年が過ぎると1877年には11.5万t、1879年の12万tを輸出したとされています。1880年代になると大きなマーケットであったアメリカ市場で日本茶の販売量が中国緑茶を追い抜く販売量を記録したにもかかわらず、中国茶葉の総輸出量も、1886年には13.4万tとピークを迎えたとされ、中国茶は国際的商品となりました。
7 中国茶葉輸出の衰退
翌1887年から中国茶葉の輸出は下降し、インド紅茶を初めとする各植民地で生産された後発の茶葉産地からの輸出の影響などから中国の茶葉輸出量は、1896年10万t、1900年8.38万tと下降したとされています。この頃から中国は茶葉の総輸出量でインドを下回り始めました。当時アメリカ市場でで緑茶に代わり烏龍茶への需要が高まりがあったとされ、日本も当時日本領であった台湾から積極的に烏龍茶をアメリカに向けて輸出し市場獲得に努めました。またこの頃日本は緑茶の茶葉で約2万tの茶葉を輸出し、インド・中国・スリランカ・インドネシアに次いで世界第五番目の茶葉輸出国の地位を占めていたとされています。中国茶の総輸出量は市場での勢いを失い、その後1915年には一端10.78万tと回復しましたが、1918年には2.45万tと急降下し茶園の荒廃も進み、1920年には4.17万t、1921年1929年5.74万t、1937年の盧溝橋事件後、日中戦争期間中の1941年には8000t、日中戦争終結時の1945年にはわずか500tであったとの下がったとの統計もあります。その後の国民党と共産党の内戦の時期1946年の総輸出もわずかに1000tでその後二年も、1.5万t程度で推移、内戦の終結した1949年もわずか9000tの輸出であったとされています。
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